先週末の寒かった2月18日は、妹の誕生日であったが、26年前のこの日は9年間飼っていた犬の死んだ日であった。その当時の田舎の一軒家での犬の飼い方は今のような「ペット」という存在ではなく「番犬」。庭の片隅に犬小屋をしつらえてもらい、市内に住むおじさんの向かいの家で生まれた柴の雑種を冬の日にもらってきた。「番犬」である以上、近所の犬たちもそうであったように、暑い日も寒い日も雨の日も風の日も犬小屋は外である。犬は寒さに強いとはいえ、暑さにはめっぽう弱い。小学生がきちんと面倒見ると主張したところで、そんな犬の生態など知るはずもなく、まともな世話などどのくらいできていたのだろうと思う。きちんとした躾も出来ていなかっただろうし、散歩もかなり気まぐれだった気がする。それでも、嫌なことがあると連れ出して、宛てもなく散歩して気を紛らわす相手になってくれたし、僕にはそれなりになついていた。高校受験を控えた中学3年生のときに、こんな環境で飼われている犬にとって大敵である病気フィラリアにかかってしまい、ひどい咳をするようになり、秋口からだんだん元気がなくなり、冬を迎えるころには、僕の足に抱きついてカクカクすることも出来ないくらい足腰が弱くなっていた。2月18日、昼休みに、中学校から目と鼻の先にある家から、なぜか母親が校庭横に来ていてなにか伝えたそうに立っているのが見えた。妙だなと思いつつ放課後帰ると、静かに丸くなって動かなくなっていた。
近頃、犬は「ペット」として大事にされてるように見える。が、スーパーに買い物に行く「ついで」の散歩とか(スーパーの脇につながれて、知らない人ばかりに囲まれてすごいストレスだろうし、盗まれても文句は言えないだろうし)、大型犬でもないのに自転車で引きずるような散歩をする人とか(犬にとってはとてつもなく負荷の高い運動なのです)、巻き取り式の長~いリードで好き勝手に歩かせて散歩してる人とか(とっさの制御ができないし、小さな犬でこれやられると、犬の存在に気がつかないし、そのリードに引っかかりそうになる。多摩サイなんかで脇道から上がってくるこの手合いには困りモノだ)。本当に大事にしているのかどうか疑わしい人がたくさんなのである。何かを大事にすることは、自分にも大きな責任が発生するのだと自覚してくれないと困る。ここのところ、チワワも急激に見なくなったような気もするし。将来大事にできる環境が整うとしたら、また犬も飼いたいなあ。猫ももちろん、かわいいけど、ね。
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